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「日本人に生まれて良かった!」「感動と涙が止まらない!」「こんなの日本だけ!」30年間日本に統治されたパラオが、世界一の親日国である理由に世界中が涙!パラオの人々は戦後アメリカが日本を悪者にする嘘の洗脳教育を払い捨てた。
日本は1914年から1931年まで、パラオを含む赤道以北のミクロネシアの島々「南洋群島」を統治していました。
パラオの日本統治の歴史は次のとおりです。
1899年:スペインがミクロネシアの島々をドイツに売却
1914年:第一次世界大戦が始まり、日本はパラオを含むドイツ領ミクロネシア(南洋群島)を占領
1920年:国際連盟から当時、常任理事国日本のパラオを含むミクロネシア(南洋群島)委任統治が認められる
1922年:南洋群島全体を管轄する南洋庁本庁がコロールに設置される
日本はパラオの経済開発施策を進め、リン鉱石採掘やボーキサイト採掘、農業開拓、漁業育成などを行いました。
また、住民児童に公学校入学を義務づけ、日本語と皇民化の教育も行いました。
太平洋戦争後は、日本人は強制送還され、パラオはアメリカの統治下に入りました。
1994年:パラオはアメリカ合衆国から独立し、同年11月2日に日本と国交を樹立しました。
日本とパラオは、国連など国際機関の場や捕鯨問題などで常に協調してきた親密な友好国です。
25:05よりの書き起こしの一部
もしあの時、中川隊長が自分たちを
追い返してもらえなかったら
自分たちもここで最期を迎えたのだろう。
日本兵たちの遺体を埋葬しながら
隊長の怒声を思い返すと
カノアは涙がにじむのを堪えながら
隊長の眠る場所に頭を垂れました。
「俺たちがもう一度ペリリュー島を取り戻します。」
カノアや若者たちがそう決意した時
今度はアメリカ人たちが島にやってきたのです。
◎パラオの方々は、戦後アメリカが
日本を悪者とする嘘の洗脳教育を払い捨てた。ここが戦後日本人にかけていた。
この島はアメリカが統治すると宣言し
日本を使うことは禁止され
教科書もアメリカが与えたものを使用することになりました。
そのアメリカ式の教育では、
日本が現地住民を虐待し、
殺害したと教えられたが、
住民たちが、そんなものは嘘だと反抗
アメリカは島をめちゃくちゃにして、
こんなことまで
アメリカの用意した教科書を見た
カノアの手は怒りで震えました
もしもアメリカが来なければ
パラオは平和で豊かな島だったんだぞ
戦火によって島を焼きつ尽くしたアメリカが
自分たちを正当化するために
日本を悪者にし
助けに来た自分たちこそがヒーロー
なのだと洗脳したかったのでしょう。
しかし、島民たちにとって
日本の統治した日々は
過去ではなく、今もなお
心の中に生きていました。
日本の統治のもと
この島ではインフラや街並みが整備され
教育が普及し、産業、
経済の発展した豊かで平和の時代
そんな恩義ある日本を悪く言うなど
許せないという島民たちが
その教科書を拒絶したことで
アメリカの反日教育は失敗に終わります。
若者たちは日本人の思い出や島民や島を守ってくれたことを
何度も語り合いました。
日本統治時代に習った日本語を忘れないために生活の中に取り入れたり
日本人風の名字を名乗るものも多くいました。
パラオ人には、もともと名字がなかったのですが
島民たちは尊敬する日本人たちの名前をとって名字を名乗るように
オカダ、タロウ、マツコなど、日本風の名を受け継ぐ島民が今も多くいます。
アメリカは支配下に置いたパラオに豊富な資金援助こそ
行いましたが島民の為の産業や経済については手をかけませんでした。
そのため、パラオでは食料や生活物資などもすべて
アメリカからの輸入に頼らざるを得ない生活。
アメリカに飼われ、まるで餌を投げられている
家畜と同じじゃないか、
そんな状況を変えるために
島民たちは自分たちの足で立ち上がることを決意し
独立へ向けて活動を始めました。
住民投票を否決されても
彼らは絶対にあきらめませんでした。
何度も何度も独立に向けて
住民投票を行い続けた島民たち
そして1994年ついにパラオは独立
初代大統領は日系人のクニオ・オカムラ氏が努めました。
パラオの国旗は海を表す青字に月を表す黄色い丸が
配置されています。
日本の国旗の日の丸が
基となっている説もありますが
たとえこのデザインが偶然であっても
日の丸に似た美しい旗ですね。
パラオでは日本兵の慰霊碑や
戦後に作られたぺリリユー神社が
今も現地の人々によって丁重に守られ、祀られています。
パラオの人々が日本人との
何物にも代えがたい絆を大切に思い
日本への感謝の想いを語り継いでいってくださっていること、
そしてパラオの皆さんが
平和で幸せな毎日を送ってくださっていることが
何よりも、英霊となられた当時の日本人兵士のみな様、
天皇、大日本帝国政府の方々皆様がお喜びになれておられる事でしょう
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日本人より日本人の魂を持つパラオの人、イナボさんのメッセージ「日本は英霊たちの存在があって日本、経済があるからではないんです。」
[⛩ Visiting Shrines and Temples in Palau]The comments filled with tears and emotion just won’t stop! A message from Mr.Inabo, a Palauan who has a more Japanese soul than the Japanese themselves: “Japan exists because of the existence of the war dead. It does not exist because of the economy.”
「日本は英霊たちの存在があって日本、経済があるからではないんです。」(6分動画)
“Japan exists because of the existence of the war dead. It does not exist because of the economy.”
在パラオ日本国大使館ホームページより
https://www.palau.emb-japan.go.jp/itpr_ja/bilateral.html
パラオは日本の南の隣国です。そして、日本とパラオは、国連など国際機関の場や捕鯨問題などで常に協調してきた親密な友好国です。そして、このような友好関係の基盤には、深い経済的な結びつきと、長い歴史的な絆があります。
日本は、パラオの経済発展のために、独立以前から今日まで無償資金援助約276.297億円、技術協力78.88億円(2020年度までの累積)にのぼる開発協力を行ってきました。日本は、パラオの経済的繁栄のための重要なパートナーとなっています。
日本とパラオには深い歴史的な繋がりがあります。第一次世界大戦後、日本はドイツから南洋群島を引き継ぎ、第二次世界大戦の終わりまで統治していました。この時代に、南洋庁が設置されたのがパラオのコロールです。南洋群島には、数万人の日本人が生活し、農業や漁業、養殖業などを営んでいました。このため、現在に至るまでパラオの言語や文化には日本の影響が見られます。また、終戦後も、独立時の大統領である故クニオ・ナカムラ氏など多数の日系人が活躍してきました。日本統治を経験した世代が高齢化する中、日本とパラオの文化的な絆の維持は重要な課題となっています。
各国・地域情報 パラオ共和国(外務省HP)別ウィンドウで開く
日本統治時代の日本人集落
日本統治時代の日本人集落 その2
二国間関係
◆日・パラオ関係史
1.日本統治時代
1914年に第一次大戦が勃発すると、日本はドイツ領だったパラオを占領し、1920年に国際連盟の委任統治領として正式に施政下に置いた。1922の民政移管に伴い日本は、コロールにミクロネシア委任統治地域全体を統括する南洋庁の本庁を設置し、パラオは南洋群島の政治的中心地となった。日本は殖産興業と住民教育に重点を置き、リン鉱石採掘、ボーキサイト採掘、農業開拓、漁業育成等、開発を積極的に行った。また住民児童に公学校入学を義務づけ、日本語と皇民化の教育を行った。日本からの移民も多く、1938年には15,700人の日本人が居住し、パラオ人人口(6,400人)を凌いだ。このため、パラオは日本の影響を強く受け、混血や日本語残存度もミクロネシア地域の中ではもっとも高いと言われる。また現在でも余暇に花札を楽しんだり、老人たちが流暢な日本語を話すのは、こうした日本統治時代の名残である。
2.太平洋戦争
ミクロネシア地域は第二次大戦で日米間の激戦地となった。パラオではペリリュー島及びアンガウル島でアメリカ軍による上陸作戦が行われ、日米双方に多大な戦死者が出た。両島およびコロールにいたパラオ人および日本人民間人は、バベルダオブ島に疎開して生活をした。パラオ人の間では「決死隊」が組織され、また「挺身隊員」としてニューギニア戦線に赴く者もいた。補給の途絶により、多くの日本軍が駐留していたパラオでは深刻な食糧不足に陥り、度重なる空襲を受けるなど、多くの日本・パラオの現地住民が精神的、物質的苦痛を被った。
3.ミクロネシア協定
戦後日本人は強制送還され、パラオはアメリカの統治下に入った。その後はこうした旧住民、遺族などを中心に民間ベースでの交流が続いていた。他方、戦争による住民被害に対しては、日米両国で1969年に「太平洋諸島信託統治地域に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(略称:ミクロネシア協定)」を締結、これに基づいて日米両国はミクロネシアに対し各々5百万米ドル(当時のレートで18億円)の拠出を行った。
4.国家関係の樹立と強化
パラオが1994年10月1日に独立すると、日本は直ちにパラオを国家承認し、11月2日には外交関係を結んだ。1995年1月にはパラオ議会の招きにより三塚博衆議院議員(日・パラオ友好議員連盟会長)がパラオを訪問し、同議会で外国人初の演説を行った。パラオからも要人がたびたび来日しており、2000年4月に宮崎で行われた太平洋島サミットでは、ナカムラ大統領が森総理と共同議長を務めるなど、両国は極めて緊密な関係にある。2001年1月のレメンゲサウ大統領の就任式には、衛藤征士郎外務副大臣が特派大使として出席、レメンゲサウ大統領も同年4月に訪日し、8月の再訪時には小泉総理ら要人と会談、その後も多数訪日している。1999年1月にパラオ大使館が東京に、同年2月に日本大使館がコロールに開館している。2004年1月、橋本龍太郎元総理大臣がパラオを訪問し、アジア太平洋環境開発フォーラム(APFED)の議長を務めるとともに、レメンゲサウ大統領と会談を行った。2004年11月に国交樹立10周年を迎えた。
日本統治時代の日本人集落
国名 パラオ共和国 (Republic of Palau)
首都 マルキョク州ンゲルルムッド(2006年 コロールから移転)
位置 北緯7度30分、東経134度30分に位置する。日本(東京)から約3200km。
面積 488平方キロ (日本の屋久島とほぼ同じ広さ)
時差 日本との時差はなし。
人口 総人口18,092人 (2020年:世界銀行)
在留邦人275(2024年9月現在)
言語 パラオ語、英語 (ともに公用語)
気候 海洋性熱帯気候で、高温多湿。
雨期・・・5月~10月
乾期・・・11月~4月(乾期でもスコール性の雨が多い)
平均年間降雨量・・・3,626.4mm(2021年の平均)
平均気温・・・28度 平均湿度・・・83%
(2021年:Time and Date)
国旗 デザインは海を表すブルーを背景に中央からやや左寄りに満月を表す黄金色の円。 平和と静寂、海と陸の豊饒を表している。
州旗 各州の州旗に関する詳細はこちら
年間来訪者数 94,051人 うち日本人来訪者数: 19,742人(2019年:パラオ政府観光局)
2020年はコロナ禍により18,360人(うち日本人来訪者数5,762人)
2021年は5,262人(うち日本人来訪者数162人)
政治概要
https://www.palau.emb-japan.go.jp/itpr_ja/politics.html
パラオに住む日系人の方にお話を聞くインタビューシリーズです。月に1回連載の予定です。
- 第1回 ジョン・タカヤ・スギヤマさん、ヒロコ・スギヤマさん / 2023年6月
- 第2回 ローズマリー・メルサイさん / 2023年7月
- 第3回 ヒロイチ・フユコさん / 2023年8月
- 第4回 セシリル・エルデベエルさん / 2023年9月
- 第5回 ハルオ・ウィルターさん / 2023年10月
- 第6回 サンティ・アサヌマさん / 2023年11月
- 第7回 カブリナ・カズコ・イディップさん / 2023年12月
- 第8回 スコット・ヤノさん / 2024年1月
- 第9回 フミコ・キンジオウさん / 2024年2月
- 第10回 ヨシタカ・アダチさん /2024年3月
- 第11回 キクコ・モチマルさん /2024年4月
- 第12回 キョコ・カワイ・レンギイルさん / 2024年5月
- 第13回 ヒロミ・ナベヤマさん / 2024年6月
- 第14回 マユミ・シノスカさん / 2024年7月
- 第15回 キミコ・ホセイさん / 2024年8月
- 第16回 ススム・モリさん / 2024年8月
- 第17回 ジェリー・シゲオさん / 2024年8月
- 第18回 マガレット・マツタローさん / 2024年8月
- 第19回 トシコ・アラバドゥルさん /2024年9月
- 第20回 ヨハナ・モーゼスさん /2024年10月
- 第21回 ジョナサン・ジョセフさん / 2024年11月