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2024/7/13Hakata Gion Yamakasa Group Yamamisedaiagari / UNESCO Intangible Cultural Heritage in 2016
2024/7/13 博多祇園山笠群 山見世台上り / 2016年ユネスコ無形文化遺産
here are various theories about the origin of the Hakata Gion Yamakasa. According to the Kushida Shrine’s tradition, one of the deities, Gion-no-Okami (Susanoo-no-Mikoto), was enshrined in 941. The Goryoe festival, which led to the current Gion Festival, was already being held in the capital (Kyoto), so one theory is that the festival began shortly after the enshrinement. There is also a theory that it originated in 1432, based on the Kyushu Gunki, which was the first written reference to it. Among the various theories, the Hakata Gion Yamakasa Promotion Association believes that it began in 1241, when the widely known Shoichi Kokushi sprinkled water on a segaki shelf to ward off an epidemic. At that time, it was an era of syncretism between Shinto and Buddhism. It is said that this was combined with the Gion faith to ward off disasters and developed into the Yamakasa Shinto ritual. With this 1241 as its origin, the current year of 2023 will mark 782 years of tradition. The period is from the Kamakura and Muromachi periods to the Sengoku period. The town of Hakata flourished as a center of trade with the continent, but because of this, it became a battleground for feudal lords and powerful clans during the Sengoku period, and was reduced to a burnt wasteland. Toyotomi Hideyoshi ordered the town to be restored, and this is known as the “Taikomachiwari” and “Hakatamachiwari.” During this time, the Hakata Yamakasa must have also gone through periods of prosperity and decline. In the old days, Yamakasa floats were about 12 meters tall and were carried slowly, but according to the “Kushidasha Kagami,” in the New Year of 1687 (the fourth year of the Shokyo era), when a bride from Doi-cho (Doi-ryu) who had married into a Tate-cho (Ebisu-ryu) returned home with her groom, some young men from Doi-cho poured a bucket over the groom as entertainment, which made the young men from Tate-cho storm in, causing a near-explosive situation. The situation was somehow resolved, but during a summer festival, the Ebisu school, who still had a grudge, tried to overtake the Doi school, who was eating lunch, and the Doi school, not wanting to lose, ran back, and this gained popularity and developed into the “Oi Yamakasa.” After overcoming several crises even after the Meiji Restoration, the Hakata Gion Yamakasa has become what it is today.
「博多祇園山笠の起源には諸説ある。櫛田神社の伝承によると、祭神の一柱である祇園大神(素戔嗚尊)は941年に祀られたとされる。現在の祇園祭の前身となる御霊会がすでに都(京都)で行われていたことから、祀られて間もなく始まったとする説や、文献上最初の記録である『九州軍記』から1432年に始まったとする説もある。諸説ある中、博多祇園山笠振興会では、1241年に有名な聖一国師が疫病退散のために施餓鬼棚に水をかけたのが始まりとしている。当時は神仏習合の時代だった。これが災厄除けの祇園信仰と結びつき、山笠神事に発展したといわれています。この1241年を起源とし、今年2023年で782年目の伝統となります。時代は鎌倉・室町時代から戦国時代。博多の町は大陸との交易の拠点として栄えましたが、そのために戦国時代には大名や豪族の戦場となり焼け野原と化しました。豊臣秀吉の命により町の復興が図られ、これを「太閤町割り」「博多町割り」といいます。この間、博多山笠も栄枯盛衰を経験したことでしょう。昔の山笠は高さが12メートルほどで、ゆっくりと曳かれていたが、『櫛田車鑑』によれば、貞享4年(1687年)正月、土居町(土居流)の花嫁が館町(恵比寿流)に嫁いで新郎を連れて帰省した際、土居町の若者たちが接待として新郎に桶をかけ、これに館町の若者たちが乱入して一触即発の事態となった。事態はなんとか収拾したが、夏祭りの際、恨みが残る恵比寿流が昼食中の土居流を追い抜こうとしたため、負け惜しみの土居流が逃げ帰ったことから人気が高まり「追い山笠」に発展した。明治維新後も数々の危機を乗り越え、現在の博多祇園山笠となった。」
【祭】博多祇園山笠
2024/7/12 追い山笠ならし~冷泉町付近を通過
2024年7月12日 午後4時過ぎ 博多祇園山笠 追い山笠馴らし
00:00一番山笠 大黒流
01:41二番山笠 東流
03:51三番山笠 中洲流
05:12四番山笠 西流
06:59五番山笠 千代流
09:01六番山笠 恵比須流
10:45七番山笠 土居流
12:57八番山笠 上川端通り(帰路)
ここで、ちょっと博多山笠予備知識
知らない人の為に、棒競り(棒組)の意味と模様をご覧ください。
※意味は、舁き手たちが舁き棒のポジションを争うこと。 舁き手たちは基本的にいつも同じ棒の位置で山を舁くため、時には自分と同じ位置で舁く人とバッティングすることもあり、ここで競り合いが生まれる。 ライバルを先んじていかに巧みに棒に付くかも舁き手の腕の見せ所です。
そして、博多手1本は?
博多手一本は、その場仕切り役が「手一本入れます」「手一本!」と声を掛けると、体の前で手を打つ体勢を整え、
# 「よーお」(パン・パン)
# 「も一つ(もひとつ)」(パン・パン)
# 「祝うて三度(いおうてさんど)」(パパン・パン)
・・・と、その場の仕切り役の掛け声に合せて行うのが慣例。
山笠経験者による手一本は、大変スピード感があって訛って聞こえる事も多く「も一つ」が「まひとつ」「もーつっしょ」「まひとつしょ」に、「祝うて三度」が「いおうてさん」「よーてさんど」「よーとさん」「よてさん」と聞こえる事もある。
千代流は、7月15日の追い山笠で須崎町の廻り止めに到着すると、その場で歓喜の手一本を入れるのが恒例となっています。
また、追善山(弔問山)
去年の山笠以降に亡くなった山笠の功労者を弔う儀式。『弔問山』とも呼びます。
13日の集団山見せから戻り手打ちが終わった後、物故者の家の前に舁き入れ、家の前に設けられた祭壇の前で、物故者への感謝と冥福を祈って「祝いめでた」を唄って手一本を入れる。流によっては11日の朝山や他流舁の際に行う場合もあり、また作法も山ゆすりを行ったりするなど各流でそれぞれの違いがあります。
全国的に見て亡くなった方に祝い唄を贈るという風習は珍しいらしいのだが、山笠が好きだった故人なら山を前に陽気に弔ってもらった方が喜ぶという博多っ子の粋な計らいであります。
追善山の模様です。
2022年7月11日に行われた恵比須流による第八代博多祇園山笠振興会会長を務めた波多江五朗氏への追善山の模様です。
【祭】博多祇園山笠《追い山》
2024年7月15日早朝、博多祇園山笠のフィナーレを飾る『追い山』が行われました おりしも停滞する梅雨前線による線状降水帯の発生も懸念された梅雨末期の天候で、追い山開始直前まではかなりの雨が降っておりましたが、舁き山が市中に繰り出してきた時間に不思議と雨が止み、撮影はしやすくなりました。 今回の撮影場所は、全コースの中でも一番の下り坂で山足のコントロールが求められる難所がある旧東町筋で、安全に撮影できる電柱裏に脚立を立てて撮影を行いました。 一番山笠の大黒流から七番山笠の土居流まで撮影されています。
you tube 情報提供者 (
ナチタ重工業株式會社のナチタ総統の動画です! )
追い山の後といえば、
山小屋前の恒例行事 今回は久しぶりに『東流』の山小屋で舁き山の帰りを待ちました。 山笠の雰囲気をお楽しみください。 来年は東流が一番山笠です 櫛田神社での祝いめでたも楽しみですね 博多の夏がこれでやってきます。
これも粋ですね。。今年一番だったので来年2025年は
1番山笠は、大黒流から東流に
山笠に関わっておられます皆様、
博多の街の災難除け、疫病退散、繁栄の為のご神事
本当にありがとうございました。お疲れさまでございました。